0022

あーあ。本当にあーあ。としか言いようがない。今それ以外の言葉は出て来ないんです。
また会えると思っていた友人が死んじゃった。もう少し、ほんのちょっと頭の調子が良かったら、入院するほどじゃなかったら、死ぬ前に会えたはずでさ。やりきれないなーって思いながらここ2日過ごしていた。そんな中で通院と映画鑑賞と小説がなんとか私を支えてくれた。
昨日は退院するときもらった薬が間違っていたので、とりあえず病院に行ったんだ。だいたい1時間くらい電車に揺られて不安になったときに飲む薬を出してもらい直した。ついでに入院していたときの請求書を病棟に取りに行ったら、私の大好きな看護師のMさんがいて小さく手を振って、Mさんも手を振り返してくれたんだ。すごく嬉しかったです。たださ、私が複雑な思いを抱いているN先生もスタッフステーションにいて、なんだかなって思っちゃった。けどね初めて彼の顔をまじまじと見ることができたんだ。怖かったんだなって思っちゃった。見つめることは愛することだよ。見ることは暴くことだよ。彼は私を見ていなかった。私の狂気だけを見つめていた。だからそんなN先生を見つめられなかったんだなって。彼は鏡だった。いまはそんなに躊躇しないけど、すごく怖かったんだなって。今も少し怖いけど、初めて彼の顔を、表情を見れた気がする。安心して、ちょっと寂しくなっちゃった。だってさ、もう大丈夫になっちゃったんだもん。甘えてられなくなっちゃった。よっかかっていられない。ひとりで立つってこんなふうに寂しいことなんだなあとしみじみと感じ入っちゃった。でも正直甘やかしてほしかった。だってこんなに心細いんだもん。
今日は映画を観に銀座まで出た。ひさしぶりの都内で、ザギン(死語)だったけれどテンションは下がりっぱなし。シャネルもイッセイ・ミヤケもルイ・ヴィトンもただの名前だけで、すーっと通りすぎた。今の私にはなんの意味がないって知っていたからさ。シネスイッチ銀座のスクリーン前の席に座ると、懐かしさを感じたんだ。旅行に出れない私を遠くに連れて行ってくれたのは映画が最初だったからね。初めてこの座席に腰を下ろしたのは17歳だったけれど、そんな昔のことのようには感じなくて。だからノスタルジックなのかも。不思議な感じだった。そんな映画館で私の大好きな俳優のイザベル・ユペール主演の『不思議の国のシドニ』を観たよ。フランスの小説家が日本に来て、死んだはずの夫の霊を見て、日本人の男性と愛し合って、日本を出てく話。ただそれだけ。エリーズ・ジラール監督の前作『静かなふたり』、古書店店主と若い女のラブストーリー、も素敵だった。無駄にうるさくなくって、無駄に扇情的に映像を撮らない監督。ベッドシーンもあったけれどさ、いかにもエロエロしく官能的にスクリーンに映ることがなくって安心したんだ。安心しすぎて少し船を漕いでしまったくらい。
で、最初の話に戻すけど、この二つも結局あーあ。なの。だって友人が死んでかなしいからN先生に抱きとめてもらいたかった。幽霊でもいいから友達に会いたかったんだ。どこまでも友人の影が付きまとう。だからあーあ。なの。わかるでしょ?
この2日間久しぶりに小説を読んだ。庄司薫の『白鳥の歌なんて聞こえない』。ほんと久しぶりに再読したからこんな話だったよねーウンウンみたいな感じ。知り合いのおじいちゃんの死を目の前にして、右往左往する薫君と由美ちゃんのお話。まさしく今の私みたいな。
死はキレイなものでも怒りの対象でもない。そんなんだから生きている人間は卑しくも尊く右往左往しなくちゃいけないんだ。だから心底あーあ。と思ってしまったのよ。だって生きるって結局そういうことなんだもん。それがどこまでも、果てまでも、かなしい。N先生でもいい、『不思議の国のシドニ』でもいい、私を抱きしめて大丈夫だよって言って欲しかった。かなしくても大丈夫だよって。それか薫君みたいにモクレンの花を誰かに持ってきて欲しかった。でも現実にはNはただの医者で、『不思議の国のシドニ』も映画で、薫君は小説の登場人物なの。じゅうぶんわかっているよ。けど寄る辺ないってこういうことを言うんだなって心底思ってしまって、最初のあーあ。っていう言葉が出てきたわけ。ほんとあーあ。あーあ!
明日とっととこの世に見切りつけてしまった友人のお葬式をオンラインでする。きっと私はそこで笑ったり泣いたりするんだろうね。だってとてもかなしいんだもん。お葬式は本当に生きている人間のためだよ。そこでちょっとだけ友人の白鳥の歌を聞いてみてやってもいいと思った。歌は言葉だから。言葉は残しておけば忘れ去られることはないから。いつでも思い出せるように引き出しにしまっておくよ。けど覚悟しててね、友人よ。私もそっちに行ったら色んな歌を歌うから。知らないと思うけど、すっごく音痴なの。なーんてね。あーあ!!!!