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小説を書き始めたのは2010年頃からだった。執念深く14年も書いていると、原稿料をもらえるくらいには作家になれるものなのかと、今さらながら少し驚いている。けれど14年の月日はとても早かった。
2010年に初めて書いた小説は「嵐のような女」という短編だった。付き合っている男を変えるものの、いつも暴力を振るわれる友人。そんな友人のアジールになる主人公の部屋。主人公は甲斐甲斐しく友人の世話をする。友人は玄関で主人公にキスをして部屋を出ていく。主人公は彼女を追おうと決意する。そこでピリオド。私の作家としてのはじまりは、この短くつたない作品だと思っている。
14年間、女性同士の「どうしようもない感情」について書いてきた。それは恋慕とか憎悪とか殺意とか慈愛だった。いわゆる百合やGLといわれるもので、書くことはとても楽しいことだった。そして今も女性同士の「どうしようもない感情」を書くことが好きだ。絡みあって容易にほどくことのできない感情にいつも親しみを感じている。
長々と女性同士の話を書いてきているが「なぜ女性同士ではならなかったのか」という問いに今もうまく答えられない。恋慕や憎悪や殺意や慈愛を書くことに、性別は関係ないし、それこそSF的なギミックを使ってだって書ける。
ひとつ言えることは、体という不思議な物質について書きたいといつも思っている。虚構を構築するけれど、嘘はつけない。自分の体しか知らない。そして自分の似姿を愛している。女性同士の関係を描く理由の紛れもないひとつの理由だと思う。誠実に、正直にそして素直に書けることは女の肉体だった。感情のもつれは体のアンバランスさに繋がっているとも思う。「嵐のような女」の主人公は感情や欲望を束縛され、友人の傷ついた体を持てあます。このテーマはずっと私に付きまとっている。女は、人間は必ずどこかが歪んでいる。完全無欠の人間など存在せず、欠落があるからこそ、感情を抱ける。その感情はどんなものであれ、とても尊いものだ。
私は長い間「嵐のような女」の主人公のような人間だと思っていた。他人にかき乱され、翻弄する人間だと思いこんでいた。しかし今読み返してみると主人公の友人のような人間でもあるような気がする。暴力を振るわれ、みじめな思いをしても、決して主人公への愛を忘れない執念深さ。この短編を書いた当初わからなかったことが、少しずつ浮かび上がってくる。私の「執念深い」という言葉は照れ隠しでもある。執念深さは健気さに似ている。最近はそんなことも考えたりしている。